【利己と利他】”心”が決める地獄と極楽

こんにちは☺ちょっぷです☺

本日は、『成功と失敗の法則 著:稲森和夫』から

個人的に興味深い内容だった、『地獄と極楽の違い』をご紹介したいと思います。

利己の心と利他の心

私たちは人間である以上、どうしても損得勘定などにこだわった行動をとってしまいがちです。

損得勘定が働いた行動というのは、つまるところ『利己』にとらわれ、つい自分の事だけを考えてしまうということです。

誰しも利己的な生き方をしてしまうと、いくら豊かな時代になろうと世相は荒れてしまい、

ギスギスとした雰囲気の中で生きていくこととなってしまうでしょう。

だからこそ、豊かな人生を送るためにも『思いやる心』

すなわち『利他の心』がいかに大切かを、

本書から一部抜粋しながら

わかりやすく説かれている仏教の教えをご紹介します。

『地獄』とは、どんな場所なのか?

ある修行僧が、老子に聞きました。

修「あの世には地獄も極楽もあるといわれますが、本当にあるのでしょうか?また、地獄があるとすれば、そこはどんなところでしょうか?」

老「もちろん、あの世には地獄も極楽もある。もっとも、お前が思っているほどの違いはない。外見上は地獄と極楽はまったく同じだ。違っているのは、そこに住んでいる人の心だけなんだよ。地獄には自分のことしか考えない利己的な人が住んでおり、極楽には思いやりにあふれた利他の心を持っている人が住んでいる」

修「心が違うというだけで、なぜ地獄と極楽に分かれるのでしょうか?」

これに対して老子は、次のような例え話を聞かせたといいます。

 

厳しい修行に明け暮れる修行僧にとり、うどんは一番のごちそうなのですが、

部屋の真ん中に置いてある大きな釜に、おいしいうどんが煮えていて、つけ汁も置いてある。

ただ、食べ方のルールは決まっていて、1メートルの長い箸で、しかもその端を持って食べなければいけません。

地獄も極楽も、ここまでは同じだといいます。

地獄(利己)のケース

地獄も極楽も、釜の大きさ・釜を囲む人数も一緒で、人々の心だけが違っている。

「さあ、食べてもいいよ」

と言われたら、どのようなことが起こるのか。

地獄では

その1メートルの箸でうどんをつかむが早いか、自分の側にあるつけ汁につける。

つけるけれども、箸が長すぎて自分の口には入らない。

反対側からは、「こいつに食われてたまるか」といわんばかりに

人のとったうどんを箸で引っ張る。

こうして、さながら阿鼻叫喚の図が完成する。

釜の周辺にはうどんが飛び散って、結局誰も一口も食べることができません。

誰しもが自分のことだけを考えてしまったことで、結果的に全員何一つ得られることがなかったのです。

極楽(利他)のケース

一方極楽には、思いやりにあふれた人たちだけが住んでいます。

そこでは「はい、あなたからどうぞ」と箸を伸ばして向こう側の人に食べさせてあげる。

前に座っている人も、「今度はあなたがどうぞ」と言って、その人にうどんを取ってあげる。

うどんは少しもこぼれないし、誰もが穏やかに食べることができる。

そして、人々は手を合わせて、感謝しながら食べている。

 

「これこそが極楽なんだよ。しかし、外見は地獄と何も変わらない」

と、老子は修行僧に教えるのでした。

地獄・極楽が示唆していること

この話が示唆していることは、

何もあの世の話だけではなく、今この瞬間でも同じ事が言えることにお気づきでしょうか?

つまり現実の世界でも、

心の持ち方ひとつで、極楽に感じることもできるし、地獄のような日々だと感じてしまうこともできます。

「そうはいっても、世の中綺麗ごとばかりではない」

そのように感じてしまう方々もいらっしゃるでしょう。

しかし、自分で変えられるものは、ひとではなく自分だけ。

自分以外のコントロールできないモノをコントロールしようとして、

疲弊してしまうのはエネルギーの割り振り方を間違えてしまっています。

できる限り自分で変えられるものだけを意識して、心の中を極楽に保っていきたいものですね。

今日も、平和な1日に感謝です。おしまい。

 

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