最高の親孝行とは

親孝行、したい時には親はなし

このことわざの意味は、

「親孝行をしたいと一番強く感じる時、それは親が亡くなったときである」

というものです。

大人になったら、みんな忙しくなってしまうし、

自分の生活もあるから、どうしても自分のことで手一杯になってしまいます。

親孝行したかった。親孝行できなかった。

そんなことを感じてしまい、いつか悔やむ日がくるその前に、

そもそも何が、一番の親孝行なのかを考えたほうが良いのかもしれない。

最も親不孝なのは、親より先に亡くなること

親より先に死ぬな。それが一番の親不孝だ。

これは、僕が子供の頃に、母親からよく言われていた言葉です。

僕の両親は僕が小学4年生くらいの時に離婚したので、

それからは母親が、女手一つで、三兄弟であるぼくたちを育てあげてくれました。

僕は母親が自分の為に何かをしている姿をあまり見かけたことがなく、

ほとんどすべての時間を僕たち三兄弟に捧げてくれていました。

それをそばで見ていたから、

「僕も何か恩返しをしたいな。何をしたら母親は喜んでくれるのかな?」

そんなことを考えて、よく母親に聞いていました。

でも母親は

その気持ちだけでいい。親孝行なんていらないわ。

あんたらが元気やったらそれでいいんや。

いつもそんなことを言われていました。

そしてもうひとつ。いつも添える言葉が

親より先に死ぬな

という言葉でした。

そこで僕は、

ああ、生きているだけで、

もう親孝行になっていたんだな

と、気持ちが少し楽になりました。

当たり前の日々

よく、親が子供を育てるのは当たり前と言われます。

僕自身も父親になったので、「当たり前に」愛娘を育てています。

でもこの「当たり前」って、

「世間一般的に常識として共有されている状態」を表しているだけで、

当たり前に対しての「内容も解釈も属人的」だと考えています。

また、当たり前とは、例えば苦労したことも、辛抱したことも

「当たり前の日々」からはみ出さないよう堪えてきただけかもしれません。

辛いことや嫌なことも、たくさんあったかもしれません

頭を抱えてしまう、不安な日々もあったかもしれません

結局、「当たり前の日々の中身」までは、

本人以外誰にもそれを推し量ることはできません。

だから、そんな当たり前という便利な言葉に依存せず、

「当たり前かのように積み重ねてくれていた日々」を、

きちんと考え、感謝することは大切だと思うんです。

親孝行は自分の為に

僕は母親から、生きているだけで親孝行になっているということを教えてもらいました。

その前提の上で、自分がやってあげたいなと思うこともなるべく行動しようと思っています。

この追加の行動分は、親孝行という名目の、自己満足です。

何かを与えたいと思う気持ちやその行動は、そのひと自身を豊かにします。

僕は、親孝行を通じて、自分自身が豊かになる行動をとっているだけなので

親孝行は、結局自分の為に行うものなのかもしれないと考えています。

恩返しではなく、恩送り

親孝行は「恩返し」の気持ちから宿ると思います。

ひとは受けた恩は返そうとするからです。

しかし、そもそも与えた側の親は

恩を返してほしいという考えが全くないはずです。

恩を与えたという認識すらないはずです。

だから僕たちは、「恩返し」ではなく「恩送り」をしていかなければいけないと思うんです。

自分に新しい家族ができたら、その家族にも同じように与えていく。

恩送り精神が、絶えず注がれ続ける家族愛に繋がっていると思っています。

結論:親孝行は「もうできている」

親孝行したいと思う気持ちはとても素敵です。

ですがその思いが強ければ強いほど

もし果たせなかった時の悔いは、とても強いものになってしまいます。

だから親孝行は、発想を変えたほうがいい。

自分(子供)が親を見送ることができたことが、何より一番の親孝行。

追加で親孝行したいと思っていることは、自己満足。

そして、できれば自己満足も満たしたいと思うはずなので、

追加でやってあげたいと思ったことは、

自分の為にも、できるだけ早く、行動にうつしていきましょう(*^^*)

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