勉強は「贅沢な行為」

勉強を行うことは、贅沢な行為である

そもそも、贅沢とは

・実際の生活で必要とする以上の、分に過ぎた消費

・必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使用すること

つまり、生きていく上で必要以上の物事に取り組んだり、消費を行う行為は基本的には贅沢といえるということです。

僕たちの日常は、ありとあらゆる贅沢品に囲まれている

現代では、日常的なことから、非日常的なことまで、ありとあらゆるモノやコトは、金銭と交換することで手に入れることができるといえます。

それらのモノやコトのなかで、生きるうえで必要な消費の部分はごくわずかです。

つまり僕たちを囲むあらゆるモノやコトは、実はその殆どの中身が「贅沢」であり、必要なモノではないということが理解できます。

贅沢を選択する

お金それそのものは、稼いでも豊かにはなれないという研究結果があります。

「あなたは、あといくら年収が高ければ、豊かになれると思いますか?」という質問を

年収300万円、年収600万円、年収900万円の各階層のひとたちに聞いてみると、

どの階層のひとも、

「あと2割程度年収が上がると、豊かになれると思う」

という答えが返ってきたそうです。結局のところ、お金だけでは豊かさは満たされないことを証明した研究結果だと思います。

「入るお金」それそのもの自体は、「豊かさ」に繋がらないのであれば

「出るお金」、つまり「どの贅沢を選ぶのか?」によって、豊かさを満たすひとつの基準が決まるのかもしれませんね。

勉強は、やりたくないならやらなくていい

勉強は辛い行為であり、やりたくないこと、必要ないこと、そう感じているのであれば、勉強は無理強いしてまで行うことではないと思っています。

実際僕自身も中学生の頃、「勉強なんて生きていくうえで必要ない」と感じていたので、あの頃勉強や宿題をやった記憶なんてありませんし、途中からは学校にもあまり行かなくなってしまいました。

おかげさまで、今では立派(?)な「偏差値40の読書家」になりました。(笑)

ですが僕は、昔勉強をしなかったことを後悔しているわけではないですし、昔の分を取り戻そうとして、今必死に勉強しているわけではありません。ただ、やっと気が付いただけです。

勉強することが贅沢な行為だということに。

勉強は、生きるうえで必ずしも必要なことではありません。極論ですが、もしいまが戦時中であり、明日も同じように生きられるかどうか不明な時に、「勉強しよう」などというひとは少ないはずです。

有難いことに、現代を生きる僕たちは、ありとあらゆる贅沢に囲まれている事に気付きました。

同時に、僕にはその殆どが実はあまり必要のないものにも感じてしまいました。

ただその中で、勉強だけは、とても意義のあるものに感じたので、贅沢な選択肢の中から「勉強」を選んだだけということです。

現代では、あまりにも多くの贅沢品が蔓延していますが、「勉強」ほど意義のある、贅沢なモノは少ないと思っています。

もし娘が「勉強したくない」と言ってきたら

ちなみに僕には今、一歳の娘がいますが、もし娘が学校に通う年頃になって、

「勉強なんてしたくない」と僕に言ってきたら、

「したくないならしなくていいよ」と答えるつもりでいます。

そもそも

「勉強しなさい」とか「勉強した方がいいよ」なんていう言葉も、言うつもりもありません。

なんなら学校に関しても、

行きたいなら行けばいいし、行きたくないなら行かなくてもいいと思っています。

もし「学校に行かない」という選択をした場合、その空いたスペースに「何をいれたいのか」に興味もあります。

ただ一点だけ、僕自身は現在、毎日楽しく勉強していますし、今後も勉強し続けていきたいので、

その姿はみせてあげたいなと思っています。

贅沢な行為は無理強いすることではないので、

(辛い勉強はしなくていいというのに、なんで本人は楽しく勉強しているのか?)

という矛盾に気付いてくれて、そこからなにかを考えてくれれば、それで良いと思っています。

勉強は、贅沢な行為だと気が付くことが、勉強に対する姿勢を変えるうえで、とても大切だと思います。

本日はそんな、勉強のお話でした。

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